株式会社山岸産業
私がプレート事業をはじめたのは1996年のこと。
現在は第二工場となっている大槌工場で、アルミプレート加工から株式会社山岸産業は始まりました。
2006年には大槌町吉里吉里に本社兼第一工場が完成。
この頃になるとアルミプレート加工のほか、ステンレスや特殊鋼の加工も手掛けるようになり、
真新しい工場には活気づいた従業員の声が響いていました。

【2006年 震災前の本社】
しかし2011年3月。東日本大震災。
私が関東圏へ出張の最中に、大地震が東日本を襲いました。
激しい揺れが収まったと同時に本社に連絡をとるも不通。
「津波がきたに違いない」
車に飛び乗りラジオをかけると、耳に入って来たのは地震とそれによる津波と火災の情報。
一刻もはやく帰らなくてはと車を走らせて、大槌町についたのは地震から数日後。
町明かりがなく真っ暗だった夜が明けて朝になり、町の惨状が目に飛び込んできました。
「ここは本当に大槌町なのか」
どうにか本社工場があった場所にいくと、そこに本社工場はなく、無残な鉄骨だけが残されていました。
工場内にあった十数台の機械は全て流されて、鉄骨の上には津波によって流されてきた車が乗っていました。
外壁は津波によってすっかり流されてしまい、骨組みによりかろうじて本社工場だったとわかる場所には
瓦礫とゴミが高く積みあがっていました。
20年間、コツコツと積み上げてきたものが一瞬で流されてしまった。
「一瞬で…何なんだよ…」という悔しさと「再開は無理かもしれない」という不安が頭を過ぎりました。

【2011年 津波によって破壊された震災後の本社】
本社工場が全壊するほどの被害のなか、幸い従業員は全員無事。
日頃から心掛けていた避難訓練の成果だと、全員の顔を見て涙が溢れました。
一緒に会社を大きくしてきた彼らが無事で本当によかった。
そんな彼らが、これからを悩む私の背中を押してくれました。
「また一緒に大槌で働きたい」
震災により家族を亡くしたり、家を流されたり、大きな被害を受けた従業員もいます。
それでも故郷・大槌に戻ってきて、また一緒に働きたいと、彼らは言ってくれました。
苦楽を共にして会社を大きくしてきた彼らの想いに応えたい。
そして、大槌に活気を取り戻したい。
私たちが大槌町で再起することが大切なのだと、再開を決意した瞬間でした。

たくさんの方々のご支援を受け、2012年11月15日に6年前と同じ場所に本社兼第一工場が完成。

【2012年 再建した本社】
従来のプレート事業に加えて新たにはじめたのは
「被災経験を活かした新たなものづくり」でした。
震災時に困ったことは電気が使えないことです。
連絡をとるための携帯電話は充電切れで使えず、充電することもできません。
また、電気を必要とする暖房機器を動かせないため、3月の厳しい寒さにさらされました。
寒さをしのぐために車の中で過ごす人もいましたが、燃料不足のため、すぐにガソリンは底をつきました。
夜になると町明かりが一切ないため、あたりは真っ暗になります。
蝋燭など、電気を使わない照明は備えに限りがあり、まともな明かりは使えませんでした。
上下水道が破損したため、井戸水を汲み上げようとしました。
しかし、ポンプを動かすための電力が確保できず、関係がないと思っていた水にも電気が必要であると知りました。
テレビやパソコンで情報を手に入れたり、携帯電話で連絡をとったり、暖を取るにも、明かりにも電気が必要でした。
当たり前のように電気を使っていた私たちの暮らし。
どれだけ電気に頼っていたのかを実感したと同時に、
もし、また大規模災害が起きた場合どうなるのかということを考えました。
また、震災直後の道路は破損し、瓦礫などが散乱しているため車が走れない箇所が多く、
支援物資などの荷物運搬に苦労しました。
車が走れる道路でも被災地は深刻な燃料不足に悩まされており、
思うように支援物資をいきわたらせることが難しい状況でした。
そこで荷物運搬の手段として用いられたのが自転車ですが、一般的な自転車では大きな荷物や重い荷物を積むことはできず、状態の悪い道路では何度もバランスを崩して転びそうになりました。

このような経験から、非常用小型発電機「HYB5500」と、電動アシスト三輪自転車「EMCAT」を開発。
震災時の「こんなものがあったらよかった」という新たなものづくりは、
万が一の際に必ずお役に立つことと確信しております。

被災経験を「新たなものづくり」という形にして、再び株式会社山岸産業は始まりました。
いま、大槌から再出発!
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